若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

裏磐梯~会津いい所あれこれ 【第1回:「史跡慧日寺」】






会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば
偲びにせもと 紐むすばさね (万葉集第14巻 3426)


「会津嶺(磐梯山)のある国が遠くなり、
逢えなくなってしまうのならば、
せめてあなたが思い出す縁(よすが)にと
私の下紐を結んで下さい。」


防人か、それともその他の急用か。
わけあって故郷会津を遠く離れなければならなくなった男が、
想いを寄せる女性に贈ったと思われる恋の歌です。

で、”紐”とは現代で言うところの「下着」のこと。
それも下(シモ)につける方。
要はこの歌、「俺のことをいつでも思い出せるように、
俺のパンツ(フンドシ)を履いていてくれ。
と宣(のたま)っている内容なわけです。

実に変態である。

まぁ、万葉集に編纂されている他の歌には、結構似たような
くだりが書かれていますので、当時はこの下紐が、遠距離恋愛の
絆を確と結びつけるスタンダードなアイテムだったようです。
用途も結ぶ意味も現代とはだいぶ違う気がしますが!

まぁそれはさておき。
日本最古の歌集である万葉集が書かれた当時、
日本の中心は西国にありました。
同じ頃の東北地方には朝廷に属さない蝦夷の勢力もあり、
その多くが未開の土地だったはずです。
そのためか、万葉集は全部で約4500首もありますが、
東北地方関連の和歌は10首しかありません。
驚いたことに、そのうちの8首がなんと現在の福島県で
詠まれた歌なんだそうです。福島には何か重要な場所でも
あったのでしょうか。冒頭の歌はその一つです。
はてさて、昔々の会津は一体どんな景色だったのでしょう。



さて、これまで米沢エリアのみで展開してきた
「いい所あれこれ」シリーズですが、いよいよ県境を跨ぎます。
福島もね、いい所いっぱいあるのよ。
西吾妻スカイバレーが通れる期間は白布温泉経由で、
冬季閉鎖中はその他のルートで周辺観光を楽しみつつ。
ぜひ訪れてほしい福島の「いい所」を、裏磐梯~
会津猪苗代エリアを中心に少しずつ紹介したいと思います。



第1回目は、今年1月にお参りに行こうとして見事大雪で
断念した憧れの(?)史跡慧日寺
とうとう先日念願の参拝を果たしました。
今回はその模様をお届けします。




慧日寺は磐梯山の南西部、今の福島県磐梯町に位置します。
創建は西暦807年。平安時代のごく初期です。
実は、この前年に磐梯山が噴火を起こしています。
元々山岳信仰が盛んだった土地柄であり、
慧日寺をこの地に据えたことと磐梯山は、
なんらかの関連があると言われています。

開基は南都出身の徳一(とくいつ)という僧侶で、
かの興福寺や東大寺で仏教を学んだ後、若干20歳そこそこで
都を離れ、はるばる東国までやってきたお方です。そのまま
都に残ればそれなりの地位に昇格する道もあったろうに、
なぜか彼は、急に縁もゆかりもない新天地を目指しました。
そして東日本諸国を巡りながら各地に寺を開いており、
そのうちのいくつかは現在も残されています。

中でも慧日寺は徳一が本拠地としたところであり、
一時は僧侶300余名、僧兵数千、分院も数多く抱え、
陸奥国の中でも異例の勢力を誇っていたそうです。

徳一はまた、当時台頭しつつあった天台宗の祖である最澄と
「三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)」と呼ばれる
激論を(互いの著作上で)交わしたことでも知られています。
ざっくりとした議論のテーマは
民衆を真に救う仏教の教え・真実とはなんぞや?」。
さらには同時代に真言宗の開祖として活躍していた空海にも、
自著の中で仏教教義に関する鋭い疑問を呈しました
(しかし空海は分が悪かったのか既読スルーしたらしい…)。


当時仏教界でも多大な影響力を持っていた2大スーパースター、
最澄&空海にはるか陸奥国から論戦を挑むあたり、徳一は

かなり肝が据わった熱血漢といっても過言ではありません。
特に最澄とのやりとりは苛烈で、かの人望厚い秀才と言われた
最澄をして罵詈雑言を吐かせるなど、かなり手練れな論客として
両人のメモリー(著書)に残されることとなりました。

日本史を学んだ人ならご存知の通り、最澄も空海も
広く名を知られた存在となっています。
かたや、徳一の名は歴史にすっかり埋もれてしまっています。
能筆家ともいわれた前者に対しても、徳一の直筆著書はほぼ
現存しておらず、主に最澄の書の中でその存在や言葉、思想が
間接的に残されているに過ぎません。
彼が住まいとした慧日寺もまた、一時は隆盛を誇ったものの、
その後の幾たびもの戦乱によって衰退し、明治時代になる
頃にはすっかり廃墟とかしてしまいました。

そんな慧日寺は今ー。



↑中門前の案内板。
現在慧日寺は史跡になっており、厳密にはお寺ではありません。
主に金堂や資料館がある「本寺地区」、
斎場があったと思われる「戒壇地区」、
10世紀ごろの御堂や塔の跡がある「観音寺地区」
の3つに分かれています。併せて約17万㎡。
史跡が森や草地に点在している状態なのであまり実感は湧きませんが、
全部くっつけると結構いいサイズの工場がすっぽり入ります。
当時の伽藍や敷地がいかに壮大だったか偲ばれます。





受付を過ぎてすぐに目につくのが中門と石敷きの広場。




そして、近年再建された金堂。
あれ、どっかで見たことあるような…?

そう、なんとなく、あの奈良の興福寺の中金堂に似ているのです。




↑こちらが興福寺。4月撮影。
いや…もちろん大きさも豪華さも全然違うわけですがね…

このみちのくの磐梯の麓に、かつての古都を思わせる壮麗なお寺が
建っていたんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになってきます。




堂内には、同じく復元された阿弥陀如来が坐しています。
東京芸大のプロフェッショナルの皆さんが何年もかけて
完成させたとか。創建当時の形式に則ってか、台座が蓮ではなく
衣を広げた「裳懸座(もかけざ)」なのが印象的でした。

この金堂と如来の再建にあたっては、徳一の学び舎でもあった
現興福寺も多大な関心を寄せ、金堂落成時には興福寺の貫主さん方も
参拝されました。
(実はその時組まれた中金堂落慶ツアーの宿泊先の一つが西屋でした。
今から4年ほど前のことです。この春私が興福寺を訪れたのは、
そのささやかなお礼も兼ねてのことでした。)






再建された金堂の裏には、





講堂、食堂(じきどう)、仏塔跡が並んでいます。
さらにはその東側に共同墓地があり、
その北端に徳一の墓と伝わる廟がひっそりと残されていました。




↑こちら徳一廟。
写真には写っていませんが、隣には徳一の後継者である
今与のお墓が並んでいます。
屋根で厳重に囲っているのは、雪除けのためでしょう。
中は仏塔になっていて、下にはお骨を収めた
壺が安置されているそうです。

70歳代で没したとされる徳一の晩年がどのような
日々だったのか、残念ながら詳しい記録は残っていませんが、
後継者と共にこうして葬られていると言うことは、
決して不幸な最期ではなかったということでしょう。





敷地内は大変良く整備されていて、すこぶる素敵な景色でした。
煌めくものはありませんが、とても心が落ち着く場所です。

さらに墓地の反対側には薬師堂、仁王門と続いており、
仁王門の中にはちゃんと立派な金剛力士像が立っています。






こちら↑仁王門内の金剛力士像。
上から順に阿吽の呼吸。

大きさもそこそこあり、実に立派なんですが…

めちゃくちゃ可愛い。

なんだこのあざとさは。
いっそヤン坊・マー坊って名前の方がしっくりくるような??


調子に乗って、有名なお寺の金剛力士像と比べてみました。



阿形の方。左から東大寺、法隆寺、慧日寺。



吽形の方。左から東大寺、法隆寺、慧日寺。

うわーうわー…並べて本当にごめんね阿吽ちゃん…

でもはっきり言おう!
ダサい!!

駄菓子屋で、昭和に流行った某特撮ヒーローと一緒にゴロゴロ
売られていた怪獣版ソフビ人形並にダサ可愛い!!!
まぁ、ある意味子供ウケしそうなフォルムです。その実、初見殺しの
裏ボスばりに戦闘能力めちゃくちゃ高いに違いありません。
そんなポジションと見た(どんなポジションだ?)。

こちらの金剛力士像は、ぜひあなたの目で直接ご覧頂きたいところ。

さて、少し離れた場所には資料館があります。
(訪問時はかなり雨が降ってきていて、うっかり写真を撮るのを忘れました…)
こちらには、慧日寺の詳しい歴史や貴重な書、当時の人々の時物や
祭祀の様子などが展示されています。有名なお寺のような華やかさは
なくとも、地元の人々に長年愛されてきたお寺だったということが
よく分かる展示になっています。
こちらもぜひ一度、足を運んでみることをおススメします。






つわものどもが夢の跡、慧日寺。

結局のところ、歴史的には思想闘争で最澄に敗れてしまった格好になる
徳一ですが、では彼が偽であり悪であったのかと言うと、
それは誰にも断じることはできません。

しばしば政治と宗教は、やたら蜜月だったり逆に因縁の間柄だったりと、
時代の変遷の中で切っても切れないつながりを延々繰り返しています。
徳一は、そんな社会のありかたや当時の仏教のスタンスに異を唱え続け、
終生権力に阿(おもね)ることはありませんでした。
もしも徳一に野望があったのなら、そもそも雪深く冬は寒く、
縁もゆかりもない東北地方に腰を据える選択はしなかったはずです。
彼はただ純粋に、己の心情に従って仏教を信仰し、あるべき世を願って
真摯に生きようとしていました。
その証は、こうして史跡や断片的な記録となって今に残されています。

同時に、もしも最澄が書面ごしではなく、物見遊山がてら会津を
訪れて徳一と直接対談していたら、もう少し穏やかな討論になって
いたのではないでしょうか。
「なんだ、話せばわかるじゃん。ところでいい場所だな!」
とか何とか、あっさり仲直りだってできていたかもしれません。

それほど、この会津の雄大な景色には、人も自然丸ごとやさしく
包み込むような、異国の人さえも惹きつけるような魅力があります。
幾たびもの戦乱や大きな天変地異(磐梯山の噴火と山体崩壊)も
ありましたが、もう遠い昔の話。
今はただ、穏やかな時間が流れています。

徳一は、この世を去るその時まで、
確かにこの地に未来を、夢を描いていました。

そんな彼の思いに触れられる史跡慧日寺。
機会があったらぜひ訪れてみて下さい。


【史跡慧日寺跡&磐梯山慧日寺資料館】
〒969-3301 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字寺西38番地
Tel 0242−73−3000
開館時間 9:00〜17:00(最終受付16:30)
開館期間 4月10日〜11月30日(期間中は無休)
入館料 個人500円 団体(20名以上)400円
※高校生以下は無料!!!!
駐車場 慧日寺資料館の前に広い駐車場があります。

白布温泉からは、西吾妻スカイバレー経由で約1時間半かかります。


今日の1曲

“Kla“ 〜Klavierraum〜

Henning Schmiedt(2007) 


動画探したけど……ない!!!苦肉の策で
Youtube Musicのリンクを貼ろうと思いました…が、
アカウント持っていないとそもそもログインが大変だと
わかり、敢え無く解除…
曲を聴いてみたい方は、Apple Musicまたは
Youtube Music(GoogleまたはYoutubeのアカウントを
お持ちの方)で以下のワードから検索してみて下さい。
[ Henning Schmiedt Klavierraum Kla ]

旧東ドイツ出身の作曲家兼ピアニスト、
ヘニング・シュミートのピアノ・ソロアルバムから。

おー、そういえば彼のアルバムを紹介するのは2回目だった。

ジャズ・クラシック・ワールドミュージックと
幅広いレパートリーを持つ氏の作品たちは、
掴みどころがないながらも深く心癒される曲が多く、
個人的に好きでよく聴いています。

本作Klaはちょっとユニークです。
他の曲は小鳥の囀りのような高音中心の細やかな
抽象曲なのに対し、Klaだけ主旋律がはっきりしています。
少しダークトーンというか、決して暗い曲ではないのですが、
優しさと憂いが合わさったような独特の旋律が印象的です。

なぜか徳一や慧日寺の雰囲気にぴったりだと思いました。
彼の遺した祈りや願いに添えて。

合掌。

若女将エッセー内検索

白布温泉 湯滝の宿 西屋

山形県米沢市大字関1527

お問い合せFacebookTwitter

Copyright (c) 2016 NISHIYA. All rights reserved.