若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

いつか笑ってまた会おう


 

夏といえば、コレ。
ブタちゃんの蚊取り線香入れ。和の空間にぴったりです。


1.

あれは、私がまだ小学生だった頃の話です。
夏休みを利用して訪れていた祖父母宅で、夕食のカレーの後に
大好きな祖母手作りのラッキョウ漬けを食べていた時のことでした。

「もうずっと前なんだけどさ。寝しなにウトウトしながら
夜のラジオ番組聴いていたら、やたら面白い曲が流れてきてさ。
なんだこりゃ!って慌てて飛び起きて、夢中で歌詞を書きとったの。
いや〜今思い出しても笑っちゃう」

そう言うや否や、目の前でいきなり足踏みしながら歌いだした祖母。

今風の言葉で言い替えるなら、まさにドン引きってやつ?
急にどうした。ていうか祖母ちゃんの方が笑えるわ。
しばしフリーズした後、

「………で、なんて曲?」


ようやく肝心の質問を投げかけました。
半世紀以上歳の離れた祖母の天真爛漫すぎる奇行を前に、
さぞ胡乱げな目をしていたであろう私など意に介すことなく、
祖母は相変わらず歌い踊りながら満面の笑顔で答えてくれました。

「それがねぇ、忘れちゃった。アハハッ!」


というわけで、祖母が思わず踊りだすほど好きだった曲は…↓

“山寺の和尚さん“

服部良一(作)ナカノ・リズム・ボーイズ(歌)(1937)


(↑ネット上にはカバー曲がたくさんUPされていますが、
こちらがおそらくオリジナルです。
サムネイルからそのままようつべにジャーンプ!)

知っている人は知っている、山寺の和尚さん。
中身が中身なのでてっきり昭和中期頃の歌かと思いきや、
なんと戦前の曲でした。
今から85年前、昭和12年にレコード販売された歌謡曲です。
なんでも江戸時代後期に流行した俗謡「ぽんにゃん節」が
元ネタだとか。タイトルそのまんまやん。
もし曲名がこっちだったら、祖母は絶対忘れなかったと思う。

山寺の和尚さんが 鞠は蹴りたし鞠はなし 
猫を棺袋に押し込んで ポンと蹴りゃニャンと鳴く♪


動物虐待だ!!
何かと世知辛いこのご時世、
こういう歌詞を見た途端すーぐ脊髄反射で身も蓋もないヤジを
飛ばしてしまうお方が一定数いらっしゃるようですが
それはあまりに想像力のないツッコミというもの。
当時から猫は、愛玩動物として庶民に広く愛されてきました。
浮世絵にだって多数登場します。
これは猫を卑下している歌ではなく、あくまで寓意だという
ことを忘れちゃいけない。和尚さんは山住まいが長すぎて
禁断症状がバグっているだけだし、ここで登場するニャンコも
実は某大将の師匠みたいなヤツで、袋詰めで蹴っ飛ばされても
「痛いぞなもし(ノーダメージ)。」ってのっそり言いながら、
カウンターで空中三回転をかます豪傑です。…多分。
2番目以降の歌詞もなかなか強烈です。
入り婿が渋茶をペッと吐いたり、
婀娜(あだ)な酌婦が腹鼓をポンポン鳴らしたり。
こんな面白い曲が太平洋戦争間近の日本で流行っていたなんて、
当時を知らぬ世代にはちょっと信じられないかもしれません。
それほど平和な時代だったのでしょう。


2.


大正末期に東京の下町で生まれ育った私の祖母は、
100円を素で「シャクえん」と呼ぶ生粋の江戸っ子。
落語が大好物で、太平洋戦争が激化する少し前まで、
当時銀座にあった貯金局に勤務するOLでもありました。
ロマンチックでお洒落で、昔の風習から不思議な民話から
なんでも知っていて…
さながら魔女のようにミステリアスな人でした。



「寝るぞ根太(ねだ)、頼むぞ架(たるき)、梁(はり)も
聞け。何ぞの時は起こしたまえ棟(むね)の木よ。」

「鮭、鮫、鱈、鯒、鯉(酒冷めたらこち来い)」





まぁ落語ネタも満載でしたが、教えられた言葉の一つ一つには、
遥か昔の人々の温かい魂のような、不思議なやさしさと力が
満ちていました。私はそんな博識な祖母が大好きで、
子供の頃は、夏休みともなると、冒頭のようにしょっちゅう
祖父母の家に遊びに行っていました。
物語の里帰りネタによくある緑あふれる田舎…
と言いたいところですが、その行き先は、
都会のど真ん中(文京区)でした。真っ赤な丸ノ内線が懐かしい。
(だから私にとって、東京は大切な第二の故郷なのです。)

ビル群と坂道のどん詰まりにあった、
猫の額のような小さな家でした。
セミの鳴く声を聞きながら玄関前に焙烙(ほうろく)を据え、
オガラ(麻)を焚いてお盆の迎え火を一緒に跨いだのも
懐かしい思い出。どれもよく覚えています。




3.

彼女からは、自身が20歳代前後の時に体験した
生々しい戦争の話もたくさん聞きました。
東京大空襲の最中、自宅で寝ていた足元に焼夷弾が落ちて
九死に一生を得たこと、一時は親戚を頼って東北(行き先は
なんと山形県。現在の大江町左沢あたり)に疎開したけれど、
寒いわ雪だわ言葉は通じないわで田舎が嫌になりすぎて、
「死んでもいいから東京に戻る!」
と捨て身の覚悟で単身帰郷し、生き残った人たちと身を
寄せつつ、幸いそのまま怪我なく終戦を迎えたこと…
などなど。

(ちなみに連れ合いであった祖父は、時同じくして
大連へ従軍しておりました。言わずもがな最前線。
あまりにも凄惨な経験だったためか、祖母とは正反対に、
当時のことを終生黙して語りませんでした。母曰く、
孫には決して怖い思いをさせたくなかったそうです。)

そしてとうとう迎えた終戦。
その日はカンカン照りの暑さで、道端のあちこちでは、
キョウチクトウ(夾竹桃)の花が咲いていたそうです。

「なんでだろう。他のことはもう殆ど覚えていないのに、
あの花の色だけがすごく記憶に焼き付いている。
綺麗だとか、儚いとか、そういう印象じゃない。
ただただ鮮烈に赤かった」
祖母はそう振り返っていました。




4.

私達は今、祖母が生きていた時代から何十年もの
長い道のりを経た令和を歩いています。
かつて焼け野原だった東京はもとより、私が子供の頃に
慣れ親しんだ街角の景色でさえ訪れるたびに姿を変え、
当時の面影はもはや殆どありません。
戦時中に比べたらそりゃあ平和な時代になりました。
物も情報も豊かにあふれ、昔よりもずっと恵まれた
暮らしを約束されています。それなのに、
どうしてなかなか自由には生きられない今の世の中。


何かの拍子で心にポキリと罅(ひび)が入った時、
否応なしに過ぎ去っていく時間に一抹の寂しさを感じた時、
ふと、大切だった亡き人を思い出すことがあります。


彼らは、今はもう受け取ることができない欲しかった
言葉や勇気を、過去という異次元からいつでも送り
届けてくれる存在です。
最愛の母の「大丈夫。あんたの頑張っている姿を見て、
応援してくれている人が必ずいるから」という穏やかな
声と笑顔、祖母が「これは効くよ〜」と教えてくれた
元気の出るおまじない…
それらはいつだって、今を生きよと背中を押してくれる。

この時期ともなると、なぜかそれらがいっとう輝きを増して、
心の行く末をより鮮明に映し出してくれるように思うのです。

キョウチクトウの鮮やかな紅のように。

亡き祖母の語りを通して見たさまざまな景色、
信仰や伝承が深く根付いていた昔々の生活は、
当然ながら、私が直接経験していない想像上の産物です。
それでも、私にとってはどれもが大切な思い出です。

時代を飛び越えようと、既にこの世から失われた
物であろうと、私がそれを忘れないでいる限り、
共に「生き続けて」いる。そう思うから。







さて、もうすぐお盆ですね。
今年は祖母の習わしに則って迎え火を焚こうかな。


あなたは誰を迎えますか。
この夏、あなたはどんな思い出に燈を灯しますか。


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