若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

若女将エッセー

2022年08月

2022.08.27

裏磐梯~会津いい所あれこれ 【第1回:「史跡慧日寺」】






会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば
偲びにせもと 紐むすばさね (万葉集第14巻 3426)


「会津嶺(磐梯山)のある国が遠くなり、
逢えなくなってしまうのならば、
せめてあなたが思い出す縁(よすが)にと
私の下紐を結んで下さい。」


防人か、それともその他の急用か。
わけあって故郷会津を遠く離れなければならなくなった男が、
想いを寄せる女性に贈ったと思われる恋の歌です。

で、”紐”とは現代で言うところの「下着」のこと。
それも下(シモ)につける方。
要はこの歌、「俺のことをいつでも思い出せるように、
俺のパンツ(フンドシ)を履いていてくれ。
と宣(のたま)っている内容なわけです。

実に変態である。

まぁ、万葉集に編纂されている他の歌には、結構似たような
くだりが書かれていますので、当時はこの下紐が、遠距離恋愛の
絆を確と結びつけるスタンダードなアイテムだったようです。
用途も結ぶ意味も現代とはだいぶ違う気がしますが!

まぁそれはさておき。
日本最古の歌集である万葉集が書かれた当時、
日本の中心は西国にありました。
同じ頃の東北地方には朝廷に属さない蝦夷の勢力もあり、
その多くが未開の土地だったはずです。
そのためか、万葉集は全部で約4500首もありますが、
東北地方関連の和歌は10首しかありません。
驚いたことに、そのうちの8首がなんと現在の福島県で
詠まれた歌なんだそうです。福島には何か重要な場所でも
あったのでしょうか。冒頭の歌はその一つです。
はてさて、昔々の会津は一体どんな景色だったのでしょう。



さて、これまで米沢エリアのみで展開してきた
「いい所あれこれ」シリーズですが、いよいよ県境を跨ぎます。
福島もね、いい所いっぱいあるのよ。
西吾妻スカイバレーが通れる期間は白布温泉経由で、
冬季閉鎖中はその他のルートで周辺観光を楽しみつつ。
ぜひ訪れてほしい福島の「いい所」を、裏磐梯~
会津猪苗代エリアを中心に少しずつ紹介したいと思います。



第1回目は、今年1月にお参りに行こうとして見事大雪で
断念した憧れの(?)史跡慧日寺
とうとう先日念願の参拝を果たしました。
今回はその模様をお届けします。




慧日寺は磐梯山の南西部、今の福島県磐梯町に位置します。
創建は西暦807年。平安時代のごく初期です。
実は、この前年に磐梯山が噴火を起こしています。
元々山岳信仰が盛んだった土地柄であり、
慧日寺をこの地に据えたことと磐梯山は、
なんらかの関連があると言われています。

開基は南都出身の徳一(とくいつ)という僧侶で、
かの興福寺や東大寺で仏教を学んだ後、若干20歳そこそこで
都を離れ、はるばる東国までやってきたお方です。そのまま
都に残ればそれなりの地位に昇格する道もあったろうに、
なぜか彼は、急に縁もゆかりもない新天地を目指しました。
そして東日本諸国を巡りながら各地に寺を開いており、
そのうちのいくつかは現在も残されています。

中でも慧日寺は徳一が本拠地としたところであり、
一時は僧侶300余名、僧兵数千、分院も数多く抱え、
陸奥国の中でも異例の勢力を誇っていたそうです。

徳一はまた、当時台頭しつつあった天台宗の祖である最澄と
「三一権実諍論(さんいちごんじつのそうろん)」と呼ばれる
激論を(互いの著作上で)交わしたことでも知られています。
ざっくりとした議論のテーマは
民衆を真に救う仏教の教え・真実とはなんぞや?」。
さらには同時代に真言宗の開祖として活躍していた空海にも、
自著の中で仏教教義に関する鋭い疑問を呈しました
(しかし空海は分が悪かったのか既読スルーしたらしい…)。


当時仏教界でも多大な影響力を持っていた2大スーパースター、
最澄&空海にはるか陸奥国から論戦を挑むあたり、徳一は

かなり肝が据わった熱血漢といっても過言ではありません。
特に最澄とのやりとりは苛烈で、かの人望厚い秀才と言われた
最澄をして罵詈雑言を吐かせるなど、かなり手練れな論客として
両人のメモリー(著書)に残されることとなりました。

日本史を学んだ人ならご存知の通り、最澄も空海も
広く名を知られた存在となっています。
かたや、徳一の名は歴史にすっかり埋もれてしまっています。
能筆家ともいわれた前者に対しても、徳一の直筆著書はほぼ
現存しておらず、主に最澄の書の中でその存在や言葉、思想が
間接的に残されているに過ぎません。
彼が住まいとした慧日寺もまた、一時は隆盛を誇ったものの、
その後の幾たびもの戦乱によって衰退し、明治時代になる
頃にはすっかり廃墟とかしてしまいました。

そんな慧日寺は今ー。



↑中門前の案内板。
現在慧日寺は史跡になっており、厳密にはお寺ではありません。
主に金堂や資料館がある「本寺地区」、
斎場があったと思われる「戒壇地区」、
10世紀ごろの御堂や塔の跡がある「観音寺地区」
の3つに分かれています。併せて約17万㎡。
史跡が森や草地に点在している状態なのであまり実感は湧きませんが、
全部くっつけると結構いいサイズの工場がすっぽり入ります。
当時の伽藍や敷地がいかに壮大だったか偲ばれます。





受付を過ぎてすぐに目につくのが中門と石敷きの広場。




そして、近年再建された金堂。
あれ、どっかで見たことあるような…?

そう、なんとなく、あの奈良の興福寺の中金堂に似ているのです。




↑こちらが興福寺。4月撮影。
いや…もちろん大きさも豪華さも全然違うわけですがね…

このみちのくの磐梯の麓に、かつての古都を思わせる壮麗なお寺が
建っていたんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになってきます。




堂内には、同じく復元された阿弥陀如来が坐しています。
東京芸大のプロフェッショナルの皆さんが何年もかけて
完成させたとか。創建当時の形式に則ってか、台座が蓮ではなく
衣を広げた「裳懸座(もかけざ)」なのが印象的でした。

この金堂と如来の再建にあたっては、徳一の学び舎でもあった
現興福寺も多大な関心を寄せ、金堂落成時には興福寺の貫主さん方も
参拝されました。
(実はその時組まれた中金堂落慶ツアーの宿泊先の一つが西屋でした。
今から4年ほど前のことです。この春私が興福寺を訪れたのは、
そのささやかなお礼も兼ねてのことでした。)






再建された金堂の裏には、





講堂、食堂(じきどう)、仏塔跡が並んでいます。
さらにはその東側に共同墓地があり、
その北端に徳一の墓と伝わる廟がひっそりと残されていました。




↑こちら徳一廟。
写真には写っていませんが、隣には徳一の後継者である
今与のお墓が並んでいます。
屋根で厳重に囲っているのは、雪除けのためでしょう。
中は仏塔になっていて、下にはお骨を収めた
壺が安置されているそうです。

70歳代で没したとされる徳一の晩年がどのような
日々だったのか、残念ながら詳しい記録は残っていませんが、
後継者と共にこうして葬られていると言うことは、
決して不幸な最期ではなかったということでしょう。





敷地内は大変良く整備されていて、すこぶる素敵な景色でした。
煌めくものはありませんが、とても心が落ち着く場所です。

さらに墓地の反対側には薬師堂、仁王門と続いており、
仁王門の中にはちゃんと立派な金剛力士像が立っています。






こちら↑仁王門内の金剛力士像。
上から順に阿吽の呼吸。

大きさもそこそこあり、実に立派なんですが…

めちゃくちゃ可愛い。

なんだこのあざとさは。
いっそヤン坊・マー坊って名前の方がしっくりくるような??


調子に乗って、有名なお寺の金剛力士像と比べてみました。



阿形の方。左から東大寺、法隆寺、慧日寺。



吽形の方。左から東大寺、法隆寺、慧日寺。

うわーうわー…並べて本当にごめんね阿吽ちゃん…

でもはっきり言おう!
ダサい!!

駄菓子屋で、昭和に流行った某特撮ヒーローと一緒にゴロゴロ
売られていた怪獣版ソフビ人形並にダサ可愛い!!!
まぁ、ある意味子供ウケしそうなフォルムです。その実、初見殺しの
裏ボスばりに戦闘能力めちゃくちゃ高いに違いありません。
そんなポジションと見た(どんなポジションだ?)。

こちらの金剛力士像は、ぜひあなたの目で直接ご覧頂きたいところ。

さて、少し離れた場所には資料館があります。
(訪問時はかなり雨が降ってきていて、うっかり写真を撮るのを忘れました…)
こちらには、慧日寺の詳しい歴史や貴重な書、当時の人々の時物や
祭祀の様子などが展示されています。有名なお寺のような華やかさは
なくとも、地元の人々に長年愛されてきたお寺だったということが
よく分かる展示になっています。
こちらもぜひ一度、足を運んでみることをおススメします。






つわものどもが夢の跡、慧日寺。

結局のところ、歴史的には思想闘争で最澄に敗れてしまった格好になる
徳一ですが、では彼が偽であり悪であったのかと言うと、
それは誰にも断じることはできません。

しばしば政治と宗教は、やたら蜜月だったり逆に因縁の間柄だったりと、
時代の変遷の中で切っても切れないつながりを延々繰り返しています。
徳一は、そんな社会のありかたや当時の仏教のスタンスに異を唱え続け、
終生権力に阿(おもね)ることはありませんでした。
もしも徳一に野望があったのなら、そもそも雪深く冬は寒く、
縁もゆかりもない東北地方に腰を据える選択はしなかったはずです。
彼はただ純粋に、己の心情に従って仏教を信仰し、あるべき世を願って
真摯に生きようとしていました。
その証は、こうして史跡や断片的な記録となって今に残されています。

同時に、もしも最澄が書面ごしではなく、物見遊山がてら会津を
訪れて徳一と直接対談していたら、もう少し穏やかな討論になって
いたのではないでしょうか。
「なんだ、話せばわかるじゃん。ところでいい場所だな!」
とか何とか、あっさり仲直りだってできていたかもしれません。

それほど、この会津の雄大な景色には、人も自然丸ごとやさしく
包み込むような、異国の人さえも惹きつけるような魅力があります。
幾たびもの戦乱や大きな天変地異(磐梯山の噴火と山体崩壊)も
ありましたが、もう遠い昔の話。
今はただ、穏やかな時間が流れています。

徳一は、この世を去るその時まで、
確かにこの地に未来を、夢を描いていました。

そんな彼の思いに触れられる史跡慧日寺。
機会があったらぜひ訪れてみて下さい。


【史跡慧日寺跡&磐梯山慧日寺資料館】
〒969-3301 福島県耶麻郡磐梯町大字磐梯字寺西38番地
Tel 0242−73−3000
開館時間 9:00〜17:00(最終受付16:30)
開館期間 4月10日〜11月30日(期間中は無休)
入館料 個人500円 団体(20名以上)400円
※高校生以下は無料!!!!
駐車場 慧日寺資料館の前に広い駐車場があります。

白布温泉からは、西吾妻スカイバレー経由で約1時間半かかります。


今日の1曲

“Kla“ 〜Klavierraum〜

Henning Schmiedt(2007) 


動画探したけど……ない!!!苦肉の策で
Youtube Musicのリンクを貼ろうと思いました…が、
アカウント持っていないとそもそもログインが大変だと
わかり、敢え無く解除…
曲を聴いてみたい方は、Apple Musicまたは
Youtube Music(GoogleまたはYoutubeのアカウントを
お持ちの方)で以下のワードから検索してみて下さい。
[ Henning Schmiedt Klavierraum Kla ]

旧東ドイツ出身の作曲家兼ピアニスト、
ヘニング・シュミートのピアノ・ソロアルバムから。

おー、そういえば彼のアルバムを紹介するのは2回目だった。

ジャズ・クラシック・ワールドミュージックと
幅広いレパートリーを持つ氏の作品たちは、
掴みどころがないながらも深く心癒される曲が多く、
個人的に好きでよく聴いています。

本作Klaはちょっとユニークです。
他の曲は小鳥の囀りのような高音中心の細やかな
抽象曲なのに対し、Klaだけ主旋律がはっきりしています。
少しダークトーンというか、決して暗い曲ではないのですが、
優しさと憂いが合わさったような独特の旋律が印象的です。

なぜか徳一や慧日寺の雰囲気にぴったりだと思いました。
彼の遺した祈りや願いに添えて。

合掌。

2022.08.20

米沢ラーメン巡り 【第14回:自家製麺めんこう】


結局ひたすら忙しくて、
迎え火も送り火もできなかった怒涛の2022年お盆ウィークでした。
ダメじゃん私。あっさり諦めるとは。
しかし米沢のお盆にゃ火を焚く習慣がそもそも無いのか、
どこを探しても肝心の材料が売られていないという衝撃の真実。
いっそ提灯にしときゃよかったかな…。
仕方がないので、代わりに子供達と花火を楽しみつつ、
亡き母や先祖を心に迎えたのでした。

さて、私の夏はまだ終わらない…
子供たちの夏休みが滞りなく終了するまでは。
エコなのかただの惰性か、スイッチ切ってもしばらく
中途半端に回っている扇風機みたいに、「ゔ〜仕事仕事…」
と今日も朝から走り続けています。
そして夜になると、突然ブレーカーが落ちるように意識が飛ぶ。
調べたところ、これは寝落ちではなく立派な気絶らしい。
ちょっと疲れすぎじゃなかろうか。

ニンニクを喰らえ!!!



さて、(ネタ切れに)困った時のラーメン巡り。
まだまだ続く「米沢ラーメン巡りシリーズ」
第14回目の今回は、自家製麺めんこうのご紹介です。

めんこうの場所は市の中心部からやや北に位置する春日地区。
以前は市役所のもっと近くにあったのですが、最近移転しました。
おかげで外観は実に真新しい一般住宅(写真)。

しかも住宅街の中に突然ポンと現れますので、
うっかり通り過ぎてしまうこと請け合い。さらには通り道を
入った裏道なのでちょっと分かりにくいかもしれません。
ナビをセットしておくことをお勧めします。





お店の中はこれまたおしゃれです。
シンプルな内装の美容院と言ってもいいくらい綺麗で、
凡そラーメン屋さんには見えません。




さて、気になるメニューはこちらです↑。
ざっとご覧いただいて分かる通り、
かなり細かいカスタムオーダーが可能です。
ニンニクを入れるか入れないか、麺の硬さ、油の量、
トッピングの有無はどうするかetc.ベーシックなラーメンには
お子さん専用のサイズもあって、親子連れには実に嬉しい配慮です。

それにしても驚いた。特に味噌ラーメン。
スープの味を決める大事なベースとも言えるニンニクを抜いて
注文可能なお店というのは、ちょっと珍しいのではないかしら。
単純に好みに合わせたカスタマイズ仕様だとは思いますが、
例えば午後に大事な(?)仕事が控えている人には嬉しい
配慮ではないでしょうか。
これは老若男女ファンができるのもうなずける。






この日私がオーダーしたのは、
お店のおすすめ!と銘打ってある「こいくち醤油らーめん」です。

スープの色からして重たそうに見えますが、
油気がそんなに強くないので、意外とあっさりしています。




一口ごとに広がるしっかりした醤油の味が、
コシの強いちぢれ麺とよく合う!一言で表そう。美味い!!!
やや太めの麺ですので、量はさほどでも食べ応えがあります。




そして、たまたま一緒にきた主人が選んだのは「みそチャーシューメン」↑。
こちらはかなりガッツリ系です。胃袋をしっかり満たしたい人向けです。

もしも醤油でガッツリいきたい人は、+ニンニク、油多めでチャーシューを
選ぶと、ボリューム的にみそ味に近くなると思います。

何度か足を運んで、自分の一番好みの組み合わせを
探してみるのもいいかもしれません。




またこちらのお店にはご飯のオプション(100円)がありますが、
オプションコーナーでセルフでよそえる上、何とおかわり以降は無料。
好きな量だけ食べられます。ラーメンも食べるワケだからそんなには
入らないと思うけれど。
ご飯の隣には、これまた自由に取れるお漬物コーナーがあります(写真)。
漬物は無料ですが、うっかり残してしまうことがないよう
常識の範囲内で頂きましょう。
さらにはゆで卵も20円で追加できます。お代はビンに入れる仕組み。

いかがですか?
実にさまざまなお客さんの味好みに幅広く対応できる、
今時の面白いラーメン屋さんです。
もちろん味も申し分ありません。清潔感あふれる店内の雰囲気もあって、
なかなか印象的でした。気になる方はぜひ足を運んでみてください。
例によって昼間は大混みします。時間に余裕を持ってお店へゴー!





【自家製麺めんこう】
〒992-0044 山形県米沢市春日4-2-100 
電話 0238-40-1793 
営業時間 11:00~15:00(昼間のみ) 
定休日 毎週月曜日 
駐車場 お店の脇に駐車場があります。10台分あるかないか。

2022.08.08

いつか笑ってまた会おう


 

夏といえば、コレ。
ブタちゃんの蚊取り線香入れ。和の空間にぴったりです。


1.

あれは、私がまだ小学生だった頃の話です。
夏休みを利用して訪れていた祖父母宅で、夕食のカレーの後に
大好きな祖母手作りのラッキョウ漬けを食べていた時のことでした。

「もうずっと前なんだけどさ。寝しなにウトウトしながら
夜のラジオ番組聴いていたら、やたら面白い曲が流れてきてさ。
なんだこりゃ!って慌てて飛び起きて、夢中で歌詞を書きとったの。
いや〜今思い出しても笑っちゃう」

そう言うや否や、目の前でいきなり足踏みしながら歌いだした祖母。

今風の言葉で言い替えるなら、まさにドン引きってやつ?
急にどうした。ていうか祖母ちゃんの方が笑えるわ。
しばしフリーズした後、

「………で、なんて曲?」


ようやく肝心の質問を投げかけました。
半世紀以上歳の離れた祖母の天真爛漫すぎる奇行を前に、
さぞ胡乱げな目をしていたであろう私など意に介すことなく、
祖母は相変わらず歌い踊りながら満面の笑顔で答えてくれました。

「それがねぇ、忘れちゃった。アハハッ!」


というわけで、祖母が思わず踊りだすほど好きだった曲は…↓

“山寺の和尚さん“

服部良一(作)ナカノ・リズム・ボーイズ(歌)(1937)


(↑ネット上にはカバー曲がたくさんUPされていますが、
こちらがおそらくオリジナルです。
サムネイルからそのままようつべにジャーンプ!)

知っている人は知っている、山寺の和尚さん。
中身が中身なのでてっきり昭和中期頃の歌かと思いきや、
なんと戦前の曲でした。
今から85年前、昭和12年にレコード販売された歌謡曲です。
なんでも江戸時代後期に流行した俗謡「ぽんにゃん節」が
元ネタだとか。タイトルそのまんまやん。
もし曲名がこっちだったら、祖母は絶対忘れなかったと思う。

山寺の和尚さんが 鞠は蹴りたし鞠はなし 
猫を棺袋に押し込んで ポンと蹴りゃニャンと鳴く♪


動物虐待だ!!
何かと世知辛いこのご時世、
こういう歌詞を見た途端すーぐ脊髄反射で身も蓋もないヤジを
飛ばしてしまうお方が一定数いらっしゃるようですが
それはあまりに想像力のないツッコミというもの。
当時から猫は、愛玩動物として庶民に広く愛されてきました。
浮世絵にだって多数登場します。
これは猫を卑下している歌ではなく、あくまで寓意だという
ことを忘れちゃいけない。和尚さんは山住まいが長すぎて
禁断症状がバグっているだけだし、ここで登場するニャンコも
実は某大将の師匠みたいなヤツで、袋詰めで蹴っ飛ばされても
「痛いぞなもし(ノーダメージ)。」ってのっそり言いながら、
カウンターで空中三回転をかます豪傑です。…多分。
2番目以降の歌詞もなかなか強烈です。
入り婿が渋茶をペッと吐いたり、
婀娜(あだ)な酌婦が腹鼓をポンポン鳴らしたり。
こんな面白い曲が太平洋戦争間近の日本で流行っていたなんて、
当時を知らぬ世代にはちょっと信じられないかもしれません。
それほど平和な時代だったのでしょう。


2.


大正末期に東京の下町で生まれ育った私の祖母は、
100円を素で「シャクえん」と呼ぶ生粋の江戸っ子。
落語が大好物で、太平洋戦争が激化する少し前まで、
当時銀座にあった貯金局に勤務するOLでもありました。
ロマンチックでお洒落で、昔の風習から不思議な民話から
なんでも知っていて…
さながら魔女のようにミステリアスな人でした。



「寝るぞ根太(ねだ)、頼むぞ架(たるき)、梁(はり)も
聞け。何ぞの時は起こしたまえ棟(むね)の木よ。」

「鮭、鮫、鱈、鯒、鯉(酒冷めたらこち来い)」





まぁ落語ネタも満載でしたが、教えられた言葉の一つ一つには、
遥か昔の人々の温かい魂のような、不思議なやさしさと力が
満ちていました。私はそんな博識な祖母が大好きで、
子供の頃は、夏休みともなると、冒頭のようにしょっちゅう
祖父母の家に遊びに行っていました。
物語の里帰りネタによくある緑あふれる田舎…
と言いたいところですが、その行き先は、
都会のど真ん中(文京区)でした。真っ赤な丸ノ内線が懐かしい。
(だから私にとって、東京は大切な第二の故郷なのです。)

ビル群と坂道のどん詰まりにあった、
猫の額のような小さな家でした。
セミの鳴く声を聞きながら玄関前に焙烙(ほうろく)を据え、
オガラ(麻)を焚いてお盆の迎え火を一緒に跨いだのも
懐かしい思い出。どれもよく覚えています。




3.

彼女からは、自身が20歳代前後の時に体験した
生々しい戦争の話もたくさん聞きました。
東京大空襲の最中、自宅で寝ていた足元に焼夷弾が落ちて
九死に一生を得たこと、一時は親戚を頼って東北(行き先は
なんと山形県。現在の大江町左沢あたり)に疎開したけれど、
寒いわ雪だわ言葉は通じないわで田舎が嫌になりすぎて、
「死んでもいいから東京に戻る!」
と捨て身の覚悟で単身帰郷し、生き残った人たちと身を
寄せつつ、幸いそのまま怪我なく終戦を迎えたこと…
などなど。

(ちなみに連れ合いであった祖父は、時同じくして
大連へ従軍しておりました。言わずもがな最前線。
あまりにも凄惨な経験だったためか、祖母とは正反対に、
当時のことを終生黙して語りませんでした。母曰く、
孫には決して怖い思いをさせたくなかったそうです。)

そしてとうとう迎えた終戦。
その日はカンカン照りの暑さで、道端のあちこちでは、
キョウチクトウ(夾竹桃)の花が咲いていたそうです。

「なんでだろう。他のことはもう殆ど覚えていないのに、
あの花の色だけがすごく記憶に焼き付いている。
綺麗だとか、儚いとか、そういう印象じゃない。
ただただ鮮烈に赤かった」
祖母はそう振り返っていました。




4.

私達は今、祖母が生きていた時代から何十年もの
長い道のりを経た令和を歩いています。
かつて焼け野原だった東京はもとより、私が子供の頃に
慣れ親しんだ街角の景色でさえ訪れるたびに姿を変え、
当時の面影はもはや殆どありません。
戦時中に比べたらそりゃあ平和な時代になりました。
物も情報も豊かにあふれ、昔よりもずっと恵まれた
暮らしを約束されています。それなのに、
どうしてなかなか自由には生きられない今の世の中。


何かの拍子で心にポキリと罅(ひび)が入った時、
否応なしに過ぎ去っていく時間に一抹の寂しさを感じた時、
ふと、大切だった亡き人を思い出すことがあります。


彼らは、今はもう受け取ることができない欲しかった
言葉や勇気を、過去という異次元からいつでも送り
届けてくれる存在です。
最愛の母の「大丈夫。あんたの頑張っている姿を見て、
応援してくれている人が必ずいるから」という穏やかな
声と笑顔、祖母が「これは効くよ〜」と教えてくれた
元気の出るおまじない…
それらはいつだって、今を生きよと背中を押してくれる。

この時期ともなると、なぜかそれらがいっとう輝きを増して、
心の行く末をより鮮明に映し出してくれるように思うのです。

キョウチクトウの鮮やかな紅のように。

亡き祖母の語りを通して見たさまざまな景色、
信仰や伝承が深く根付いていた昔々の生活は、
当然ながら、私が直接経験していない想像上の産物です。
それでも、私にとってはどれもが大切な思い出です。

時代を飛び越えようと、既にこの世から失われた
物であろうと、私がそれを忘れないでいる限り、
共に「生き続けて」いる。そう思うから。







さて、もうすぐお盆ですね。
今年は祖母の習わしに則って迎え火を焚こうかな。


あなたは誰を迎えますか。
この夏、あなたはどんな思い出に燈を灯しますか。


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