若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

Quo vadis? ~前編~


どーん。
ちょっとヤケあり、傷あり、汚れあり…
いかにも中古なこれらの大型本。



しかし、私にとっては紛れもなく宝の山です。



久しぶりの更新となりました。

前回までのシリーズを書き終え、
一つ大きな山を超えたような心境でおりました。
かの巨匠ミケランジェロは「私は大理石の中に天使を見た。
私は彼を自由にするために掘るのだ」という名言を残しましたが、
この度の私も、胸の内に滾(たぎ)るインプレッションの塊を
漸く吐き出した感じです。まぁ…インプレッションと言っても、
ミケランジェロの完成された天使には到底及ばない代物ですが…。

流石にエネルギーを出し切ったせいか、ちょっと燃え尽きまして。
今しばし筆を休めたい。
そう思い、空っぽになった頭の中をあらためて整理しつつ、
暫くインプット(学習)に集中しておりました。


で、具体的に何をインプットしているかと言いますと…
残念ながら、資格取得だとか、ビジネスに即役に立ちそうな
知識だとか、そんな将来性のあるお堅いジャンルでは全くない
ことだけは確かです。やってる本人だけが大真面目なだけで。

というかエッセでも散々触れましたね。
ただいま私、書道に続いて新たに仏教美術(仏像・仏画全般)
に絶賛傾倒中です。それどころか、門前の小僧習わぬ経を
なんとやらで、とうとう仏典まで齧り始めてしまいました。




平等院鳳凰堂に描かれた九品来迎図(右)。そして、
ナセBAこと米沢市立図書館で借りてきた仏画の描き方解説本(!)。

どこにいくんだ小僧…もとい私。
これまで全くと言っていいほど興味関心がなかったはずの仏様の
一体どこから「萌え」要素を発掘してしまったのでしょうかねぇ…。
やっぱり春の出会いかなぁ。




京都・宇治市にある伏魔御厨子…でなくて平等院鳳凰堂。
高校時代の修学旅行時はもっとすっぱげた色でしたが、いつの間に
綺麗に塗り直され、創建当時と変わらぬ美しさが蘇っていました。感動。
雲中供養菩薩の彫刻他、上記の九品来迎図が内壁に描かれています。

百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、本物との出会いは
あまりにもインパクトが違いすぎました。
本当に自分でも予想だにしない化学反応が起きてしまった。
それが、今も続いています。

まぁ、書道も仏教云々も方向性はあんまり違わない(?)し、
たとえ過去志向の文化知識でも、バタフライ効果じゃないけど
人生のどこかで思いがけず役に立つかもしれないし、
気が済むまでとことん付き合ってやろう!
とまっしぐらに沼にハマった結果が…冒頭の通りです。
我ながらよくわからない推し活である。





ちょっと話が逸れました。
さて、冒頭の写真にある古本の入手先は様々です。
先月、東京は神田町へ繰り出した時に求めた「戦利品」他、
地元の図書館で借りたらすごく内容が良かったからと、
密林やらヤ○オクやら駆使してようやくゲットしたものナドナド…。
もちろんどれも格安で!!
「リサイクルなどけしからん、ライターたるもの本はきちんと
新品を書店で買うべし」とは元朝日新聞名物記者・近藤康太郎氏
の弁。分かります。物書きが本代ケチるなって話よね(違)。
ぶっちゃけよう。元値いくらすると思ってんねん。
そもそもお目当ての本はほぼ絶版で、新品ではまず手に入らない
ものばかりです。選択肢は最初からありませんでした。
中身が無事で落丁でもしていなければ、私は基本的にガワの
新旧は気にしません。むしろ、あの如何にも年季が入って
やや黄ばんだ色味や、古本独特のまるで落ち葉のような
ほのかに甘い匂いが大好きです。
(正体は何だろう…まさかカビ(笑)?)
あたかもそれ自体が命を宿したかのように、時と共に重みを増す
古書・古筆の不思議な貫禄。
本も仏画も建物も、その雰囲気はどこか同じものがあると
私は感じています。







さてこちら↑
日本に現存する古筆のうち、最古にして、あの聖徳太子筆と
伝わる法華義疏(ほっけぎしょ…日本に最初期に渡ってきた
(大乗)仏典である法華経の解説書みたいなもの)です。

聖徳太子といえば…説明するまでもありませんね。
智謀才略に富み、冠位十二階や十七条憲法など大陸由来の
制度を日本仕様に整え、飛鳥時代の中央集権体制を幾年にも
渡って支えてきた、まさに偉人オブ有名人。
あり得ない話ですが、もしも彼がパ○ピ孔明みたいに現代に
タイムスリップして、さらにはうっかりTwitterアカウント
なんて開設した日にゃ、1日でフォロワー1000万人突破
くらいあっさり実現できそう。何の話だ。

どういうわけか聖人君子のイメージが強い聖徳太子ですが、
実際は目的のために政敵を失脚させたり時には誅殺したり、
そこそこ…いや相当やる事もやってたお方であります。
まぁ彼が生きていた頃はそういうのが日常茶飯事な時代
でしたから、そこは引き算するとして。

そんな彼の直筆は…あら何だか丸こくて可愛い。
肝心の記名がないため、太子の真筆ではないという説も
あるようですが、そこはスルーするとして。

書道専門書の解説によると、彼の字は隋朝の書体を踏襲
しつつ、軽快かつ迷いのない筆運びで行草字を認めており、
当人の理解力、知性の高さが伺えるとのこと。
素人の私が見ても、頭の理解に手の方がギリギリついて
いってるような、行書と草書が混じった興味深い書き方だと
思います。きっと、書体を整えるよりも何よりも、次から
次へと伝えたい事が溢れて、筆が止まらなかったのでしょう。




この法華義疏しかり、
たとえば知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)、
顔真卿の祭姪文稿(さいてつぶんこう)しかり…
今は亡き先達が、ひと筆ひと筆に込めた、その人にしか
醸しだせない一瞬の“魂“。これらに触れた時、私は言葉では
語り尽くせない感動を覚えます。書いてある内容だって、
傍らに専門書さえあれば、本人の直筆を通してちゃんと
理解することができます。

もちろん直に会うことはできないわけですが、
こうして遺された貴重な肉筆の数々と向き合うたび、
彼らの面影や気持ち、果てはなぜか幻の声までもが、
ありありと伝わってくるような気がします。

それがなぜか、とても嬉しいと思えてなりません。


彼らが見つめ、認めた実物が当時のまま現存していることが
そもそも感動だし、「ああ、やっぱり同じ人間だったんだな」
と親しみを覚えるし、決して見ることは叶わない遠い昔の
はずなのに、例えば聖徳太子や、彼が生きていた時代に
一瞬で飛んでいけるような気がするから。

そんな「出会い」や「対話」が何より好きだから
尚更私は古きものの懐を心地よいと感じられるのだと思います。
書も、仏像も、西屋のような建物も

まだ機械のない昔、誰かの手を、思いを経て作り出されたもの。
それらは、本来儚く短く流れてゆく人の魂を、その瞬間その姿の
まま切り取り、幾百年も留めてくれる「器」のようなものです。

しかしそれは、永遠の存在ではありません。
ただ存在するだけではだめです。何しろ器ですから、
放っておいたらいずれ時と共に劣化していきます。
きちんとを守る者がいなくては、やがて朽ち果て、
永遠に失われてしまいます。

なんなら守り手にならなくてもいい。
その価値を理解してくれるだけでもいい。
いずれにせよ、そこに宿っているものを極力壊さずに、
その思いを未来へ確かに運んでくれる存在が必要なのです。
それはいつかきっと、未来の誰かを目覚めさせ、
時には癒してくれるから。

日々、考えています。
私がいま守っているものは一体何なのか。
遺したいもの、未来へ継いでいきたいもの、
それはどのような形なのか。誰が継いでゆくのか。

漠然としながらも、それが何なのかは凡そ知っています。
ほんの小さな器ですけれどね。

しかし一つだけ、全く答えを出せていないものがあります。

それこそが、

”Quo vadis?” (どこへ行くのか?)

(続)




今日の一枚 

Henosis

Joep Beving (2019)


↑サムネイルクリックで、公式Youtubeチャンネルから
1曲目の「Unus mudus(1つの世界)」を視聴できます。

オランダの気鋭ピアニストにして作曲家、
ユップ・ベヴィンのアルバム。
ベースはクラシックですが、ピアノの主旋律をさりげなく
支えるようなシンセサイザーのアンサンブルが、
イイ感じにセピア色の世界観を醸しています。

そうね、例えるならピアノが湖の上にうかぶ小舟、
後者は湖そのものといったところです。

すべてインストルメンタルで、ピアノソロが多め。
時間帯や季節で刻々とその姿を変えてゆく湖とその景色を、
湖畔の木々になっていつまでも眺めているような、
不思議と癒されるアルバムです。

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白布温泉 湯滝の宿 西屋

山形県米沢市大字関1527

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