若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

音のある生活 46 「寄り添うもの」-②

 

先週、私用で久しぶりに東京を訪れました。



母が生まれ育ち、祖父母が今なお眠る、私の第二の故郷です。
相変わらず白布とは180度世界の違う大都会ですが、新幹線を
降りた途端懐かしさがこみあげ、かつて暮らした日々のブランクも
一気に消し飛びました。
思い出はもとより、身体がちゃんと覚えているんでしょうね。
何のためらいもなく、複数の目的地をひたすら動き回った2日間でした。


古本求めて神保町を奔走した後、時間があったので神田明神に参拝へ。
御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名大神。
いずれも温泉の神様。なにげに母方実家の近所だったりします。
今の自分が温泉地に住んでいることもあり、あらためてご縁を感じました。



境内の文化交流館では一時スマホを落とし、泡食って探し回ったのは
いい思い出(?)。預かっててくださった売店のお姉さん、本当に
ありがとうございました(汗)




夜の新宿。一番歩き慣れたエリアです。

「疲れて、時々都会を離れたくなる」
白布を訪れる大都市圏の皆さんの中には、そう口にする方が
時々いらっしゃいます。田舎と都会、両方を知る私には
その気持ちがよく分かります。空に延びた無数のビル、
縦横無尽に走る道路や線路、独特の匂い、止むことのない喧騒音…。
見事なほど人間が造り上げた、人間のための街。
無秩序なうねりとなって日々人々が動く様は、
まるで形のはっきりしない真綿の上に立つ、
不安定な世界にも思えます。

人ひとりの単位が小さすぎて、
逆に孤独を感じたこともありました。
それでも、私は嫌いではありませんでした。
あまりにも"今"が目まぐるしくて、
見なくてもいいもの…例えば過去や未来のようなもの…
にとりあえず蓋をしたままでいられる、一種安心感みたいな
ものがあったから。実際東京で暮らしていた頃は、
将来自分が地方に定住する選択肢なんぞ
微塵も抱いていませんでした。
それがいつの間にやらこの通りよ。
よもや田舎すらすっとばし、最寄りの集落まで約10km
なんていう山奥に住む羽目になろうとは。
人生何があるか分からんものです。




翻ってここ、白布温泉。
米沢市街地から車で約30分、西吾妻山麓標高850~900M、
西屋を中心とした直径20km以内の人口密度は約24人。
(↑酔狂にもわざわざ調べてみました)
その低さは実に東京都の1/256、全国で最も人口密度の低い
北海道のさらに1/3。まごうことなき山の中です。

そんな白布で湯守になって、かれこれ10年近くが経ちました。

日々宿と森を行き来していると、
否応なしに自然界の本性を目の当たりにします。
儚く美しい四季の移ろいだけが全てではありません。
突き付けられるのは、生きるか死ぬか、
自然淘汰と食物連鎖のヒエラルキー。
森も動物もすべてが等しく享受する、生々しい命の循環です。
エンカウントは突然に。
例えば…
目の前で動物の捕食場面に遭遇したことは
一度や二度ではありません。
真夜中の庭先で、何かに捕らえられた獲物が
断末魔の絶叫を上げるのを聴いたこともあります。





西屋裏のお薬師堂の軒下には(写真上部)、
もう何年も前にクマが付けた爪痕が残されています。
この中に作られたハチの巣から蜜を取ろうとして、
必死に背を伸ばして爪をかけたのでしょう。
高さ2mくらいもある位置だから、すごい執念です。
誤解されがちですが、クマは見た目に反して警戒心が強く、
めったに人の前に姿を現しません。
そんな子が、食べ物のためとはいえ相当な危険を冒して
人の住む場所のすぐ近くまでやってくるというのは、
白布では極めて珍しいことです。
よほど飢えていたか、他の仲間になわばりを追われたか。





↑眼下には西屋が見えます。
こんな近くまで、彼?彼女?はやってきたわけです。
何にせよ、過酷な状況に追い込まれていただろうことは
想像に難くありません。


もっとショッキングな話。
温度調整で水を引いている裏山の沢では、
上流から動物の亡骸や骨がダイレクトに流れ着いてくることもあります。




↑ご安心下さい!これは木の枝です!わりとそっくりさんだったので
思わず拾ってパチリしました。
こんな感じで流れてくるよー…というイメージです。

どういう最期だったのかはもちろん知りようもありませんが、
比較的無傷なものもあれば、死後それなりに経過したものも…
とだけお伝えしておきます。つまりだ、なんだかんだいって、
そこそこのエンカウント率ということですわ…。
良いのか悪いのか、今では見つけてもさして驚かなくなりました。
だいたい驚いても仕方ない。
人にあらずとも、死なば仏。
私は彼らを見つけるたびに水底から引き上げ、岸辺近くに
埋めずに置いて、軽く手を合わせるようにしています。

なぜ埋めないのかって?

別に怠けてるわけじゃありませんよ。
初めの頃はちゃんと埋めていましたとも。
でも次の日になると、その亡骸がほぼ確実に何処へと
消えてしまうのです。本当に。忽然と。
ある時、とうとうその原因を見つけました。
掘り返したと思しき場所に残されていた、動物の爪痕を。
つまり、匂いを嗅ぎつけた別の動物が、棚ぼたとばかり
夜のうちに持ち去っていったわけです。

嗅覚凄いな!というか、腹壊さんのか?
いやいや…そんなことよりも。

たとえ骨であろうと、その屍を糧に今日を生き延びようと
するものがいる。言い換えれば、死した命を無駄にせず、
意図せず次へと引き継いでくれるものがいる。
なんと情け容赦なく、尊い命のバトンタッチだろう。
その事実に気づいたときの衝撃は、なんとも表現しがたい
ものでした。

…ああそうか。
これはきっと、無暗に人の情を加えてはいけない領域なのだ。
そう気づいた私は、彼らの亡骸を埋めることも、
余計な感情を挟むことも止めたのでした。



とぐろのように木々を巻く朝霧の中。
あるいは満天の星の下。
大滝の音が木霊する谷間の向こうで。
今日もめくるめく生と死のドラマが繰り広げられています。
食うもの食われるもの、寿命を終えればみな等しく、
誰に弔われることもなく草木に覆われ、朽ちた木々もまた
年月をかけて大地に沈み、再び山に還っていきます。

時を経たそれらの残滓を目にするたび、思います。
ここは、どこまでも深く仄暗い命の世界だと。

その、茫洋として清濁併せ呑む無尽蔵の懐は、憐憫や忌避といった
人間の尺度では到底推し量れません。
常にこちらに開かれていながらも、
決して人を受け入れているわけではありませんから。
私は湯守として、そんな「異界」と人の領域との境界を
行き来するうち、早くから、「彼ら」の声なき声に耳を
澄ませるようになりました。そしてある時から、
その向こうに蠢く、得も言われぬ何かを、
強烈に感じるようにもなりました。
尤もその正体が何なのか、ごく最近まで分からずじまいでしたが…。

湯守の仕事は須らく自然相手です。
圧倒的不可抗力である自然の僅かな「機微」に対し、そこに
寄り添う人間として常に謙虚で注意深くあらねばなりません。
たとえすぐ近所の持ち場でも、気を抜けば時に危険を伴うからです。
その強い緊張が、知らず精神を鍛えてくれたのかもしれません。
ただ山に住んでいるだけだったら、おそらく知りえなかった
感覚だと思います。




前回も書きましたが、私達にとって死は恐れです。
いかなる解釈や信仰でメンタル補強しても、
古今永遠のテーマでることには変わりありません。
何しろ人間てのは、ほかの種と違って未来や死を
意識せずにはいられない、実に因果な生き物ですからね…。

一方自然界においては、
死は終焉でも度し難い恐怖でもありません。
時間と共に螺旋を描いて巡る、大きな命の流れのひとつの現象、
通過点に過ぎません。
そういう意味では、死は「救い」とも言い替えることができます。
前回のエッセでも触れました。善き生き方、輪廻、解脱と涅槃…
仏教の思想は、自然界の掟をまるで最初から知っていたかのように、
驚くほど説得力を帯びています。私が、白布の森と仏の世界に
なぜか通じると感じた共通点が、まさにここにあります。
尤も、白布界隈だけがオカルト的だとか特別だとかいう
意味では全然ありませんからね。そこが手つかずの自然、
つまり「人間の領域の外」であれば、どこだっていいのです。
ただそこに身を置いたとき、深遠に横たわるライフストリームを
見出すかどうか、その一点です。

こんな風に思ってしまうのは、私だけかもしれんが……。
そしてまたもやTo be continue...




今日の一枚!!!!
なぁにが音のあるほにゃららシリーズだよ。
ほんとタイトル詐欺もいいところだ。ごめんなさいね。
今回はどうしても吐き出したいことがあって、
脱線しないように書くので精一杯で、
音楽成分ほとんどひねり出せませんでした。

というわけでご紹介するのはコチラ。

 黛敏郎「涅槃交響曲」

岩城宏之&東京都交響楽団(1995)


↑1998年7月サントリーホールでのライブ版。
黛敏郎氏の追悼コンサートにて。
全曲通してみるのはキッツいと思いますので、
せめて32分20秒あたりのクライマックスから
見てみてみてー

本エッセーでは2回目の紹介です。
自分で言うのもなんですが、本文があまりにもあまりで、
もうこれしか思い浮かばんかった。
「涅槃交響曲」。黛敏郎氏1959年の作曲です。
本体オーケストラの他、男声合唱団と、客席側2か所に
別舞台(バンダ)演奏が加わった大編成で、
全部で6楽章あります。2楽章と4楽章には天台宗の
読経を抜粋した歌?歌詞?
うーん、足して二で割ったようなアンサンブルが入ります。
タイトルにたがわず、特に前半は重ーい、暗ーい展開。
CWはよりにもよって奈良薬師寺の声明。
そうでなくともみんなの苦手な現代曲だし、
聴いたことないよって方が殆どだとは思いますが、
私好きなの、このアルバム。
学生の頃、懐かしの新宿タワレコで買って以来、
20年近く聴いています。(もしや、その頃から
湯守っ気あったんじゃないか?呼ばれてた??)

5楽章に入ると一気にスパークします。
「すべての寺の梵鐘が鳴り響く」という場面設定だそう。
そこから途切れず6楽章に入れば、途端にあの世が見えて
きます。徐々にボルテージを上げる眩い涅槃のシーンです。

終盤の合唱は読経ではなくヴォカリーズのみですが、
和音構成が荘厳でめちゃくちゃかっこいい。
涅槃を超える瞬間ってこんなにドラマチックなのかと
妙に感動するほど。んなこと言われても全くもって
ヴィジュアルイメージが浮かばんわ!という方は、
ぜひ創建当時の煌びやかな平等院鳳凰堂や東大寺(法華堂)、
または知恩院の講堂あたりイメージしてみて下さい(んな無茶な)。

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