若女将コラム

日々西屋と山を駆け巡る湯守兼女将による、自由奔放すぎるコラム改めエッセーコーナーです。
人生は奇想天外に生き抜こう。趣味のことや日々思う事etc...ほぼ西屋に関係ない話題ばかり載せています。

言葉と魂




この世に生まれたばかりの無垢な存在。
世に花開けと親は願う。
しかし次の瞬間、それは恐ろしい牙を剥き、
あろうことかこちらに襲い掛かってくるのだった…

悪夢はたまたホラー映画で観たような話です。
結末をあまり見たくないので、できればフィクション止まりにしたい。
ところが現実社会では、これに似た展開が意外と起きていたりするという。
それをまざまざと再認識する出来事でした。
某大手牛丼チェーン元取締役による、社会人講座での失言騒動。
皆さんの記憶にも生々しいと思います。"生娘"だけに。



きっかけはFacebookでした。
受講者の一人だった女性が発した怒りの告発は、
その日のうちにTwitterに飛び火し、たちまち大炎上。
すかさずメディアが拾ったことで、件の講師は一夜にして"時の人"と
なってしまいました。発言内容のアウトっぷりはもとより、所属する
会社の看板、場所と講座を提供した大学のイメージ、40万円近くも
するビジネス講座の在り様、失言を咎めなかった同席の教授陣の資質。
すべてに厳しい批判と疑問が及び、すべてがマイナス効果となって
当人に跳ね返っていきました。
結局彼は、所属先だった会社から
「取締役解任、今後一切関係ありません」と縁を切られる羽目に。

昨日の味方は今日の敵、雉も鳴かずばなんとやら。
今風に表せば「まさに特大ブーメラン」といったところか。
教室で口にした何気ない言葉で、就職超氷河期を勝ち抜いたはずの
超エリートが、わずか一両日の間に社会的地位のすべてを失って
しまったわけです。
彼にしてみたら、文字通り"悪夢"の展開でしょう。

一方、戦争だの物価上昇だの、この頃すっかり暗いニュースに
塗れていた世間にとっては、ぶっちゃけこれ以上ないくらいの
メシウマだったにちがいない。ちょっと胸糞悪いけど。
なにはともあれ、これ以上ないほどバカバカしい顛末でした。



今回の騒動、なぜここまで大事になったのでしょうか。

ひっかかったのは、「言葉」そして「SNS拡散」でした。
この両者が絶妙に合わさって、現代ならではの災厄の
トリガーが発動しました。一見分かりやすい展開なんですが、
妙に奥が深い。言葉を巡る因果の裏側を、私は覗いてみたく
なりました。
ちょうど今はライティングの勉強をしているところです。
いい機会なので、ここはひとつ実践を兼ねて、
発言の内容を掘り下げつつ、
真面目に考察してみることにしました。

ソースはSNSに流れていた発言の数々から。

①「生娘シャブ漬け戦略」
…SNSでとりわけツッコまれていた発言ですね。
それぞれの単語の意味は語るまでもありません。
氷河期の勝ち組といえば、だいたい40代半ば~50歳前後です。
なのに生娘だのシャブだの、やたら昭和のおっさん臭い卑猥な
言い回しで見事に墓穴を掘ってしまいました。
それも、女性も少なからずいたであろう公衆の面前で。

「人間はその人の思考の産物に過ぎず、
考えていることが即ちその人になる。」

インド独立の父と言われたガンジーの名言です。

つまり彼は、自らのリビドーを何らオブラートに包むことなく、
素っ裸で堂々とシャバに出ちまったわけです。スケベか。
見てるこっちが恥ずかしい。褌(ふんどし)くらい履け。
頭がいいんだから。
例えばヒギンズ教授になったつもりで「マイフェア牛丼戦略
とでも表しておけば、名画好きでユーモアのあるおっさん、
くらいには思ってもらえたかもしれない。


②「男に奢られると牛丼を食べなくなる」

…つまり彼にとって、世の女は(社会的地位に関わらず)
尻の軽い格下にしか見えないということです。あてこすりか?
かつて私も学生時代「女一人で吉〇家やらす〇屋に行くと
彼氏できないぞ」なんて野郎にからかわれたことがあります。
だから何だというんだ失礼な。彼氏くらいいたわ。
なんなら一緒に「予算重視で牛丼屋さんに行こう!」と
ちょくちょく足を運んだ思い出だってあるわ。

とまぁ女性蔑視をムンムンに匂わせる言い回しがまずひどい。
しかしそれ以上にこの発言のヤバい所は、自社の主力商品を
根本的に愛していないことを自ら暴露してしまったことです。
愛さないどころか、その辺のジャンクフードと同じような扱い。
自分は数百円の牛丼なんぞ食わん、本命にはもっといいものを
食わせるから。そんなうすら寒いニュアンスです。
このあたりは所属会社のコンプライアンスが鋭く問われた
所以でもある。そうだな、今もお店の看板と味を守ってくれて
いる全国の従業員さんに、まずは平身低頭謝ってもらおうか。

彼は一連の発言により、自分の会社だけでなく社会そのものに
マウントを取ってしまいました。そこまで尊大な態度とった
つもりはなかった、と本人は思うかもしれません。
でも、発言したのが「社会人向けビジネス講座(高額)」という
お堅い場所だったのがなお悪かった。
TPOの観念を一体どこに忘れてきたのだろう。
誰も咎めなかったのも悲惨でした。発言した個人に留まらず、
一緒にいた人まで同類であることを言外に示してしまったから。
自分のキャリアに対する強い矜持を持っている、いや鼻に
かけている人なのだとは思います。だからといって、
自分なら何言っても許されるという理由にはなりません。
そんなものはただの甘えと驕りです。

彼は"不幸なことに"運がよく、その貧相な教養を認め、
頭脳を買ってくれる会社に続けて恵まれたに過ぎないのです。
普通に生きていれば、社会に揉まれながら鍛えるべきそれを、
残念ながら怠ってしまったわけです。

だから余計に、同じく就職氷河期を目の当たりにした同年代の
怒りややるせなさが、SNSのあちこちでなお発火材料になったの
だろうと私は考えています。今回のことで心底思い知ったろう。
世の中は決して甘くないんだと。



大事に至った要因としてもう一つ外せないのが、
SNSの無慈悲なまでの拡散力です。
言いかえると、現代ならではの不可抗力。
そもそも、改まった内容やここぞという時でもない限り、
日常の言葉(会話)は何の気なしに放たれることが殆どです。
何の気もないから「その人自身」が出やすいし、
受け取る側もそれが本音かどうか、案外見抜けてしまうもの。
対面で声として聴く場合はなおさらですね。

当然ネットがない時代も失言騒動はあったはずですが、
一定範囲以上に情報が広がる媒体、そしてその守備範囲が
限られていたため、今ほど大事にはなりえませんでした。
どこからでも気軽に投稿が可能で、瞬く間にその情報を
受け取れてしまうSNSは、だからこそ要注意です。

万が一、うっかり手榴弾(物議をかもす発言)をタイムラインに
投げ込んでしまったとします。内容を間違えた、表現が適切で
なかったと回収(削除)、あるいは代わりにパイナップルを置く
(再投稿する)ことは可能ですが、最初の投稿が既に拡散されて
しまっていたら、そう簡単には収拾がつかなくなります。

自分がちょろっと話したor書いた内容を、別の人間が見つけて
SNSに投稿した今回のようなケースはもっと厄介です。
投稿者の要約や主観といったエフェクトがかかります。
ただの手榴弾じゃなくなるわけです。
あっちこっちに手榴弾が撒かれ、方々であべこべに爆発する。
拡散の挙句、いつの間にか手榴弾が核爆弾にすり替わっている、
なんてこともある。今回そのあおりを食ったのが、
吉〇屋だったり会場の大学だったりしたわけですな。
そりゃ諸悪の根源とはさっさと縁を切りたくなるわけです。
切ったところで、相当なダメージは免れませんが。

どのみち今では既に過去の話題となりつつあります。
そう遠くないうちに「そういえば、いたねそんな人。」
程度で片づけられていくでしょう。
自ら産んだ子に憑り殺される胸糞悪いオチよりも、
ある意味残酷な幕切れです。

無秩序に情報が溢れる今の世は、欲しいものを得るには
確かに便利です。しかし一方で、瞬く間にひとつの言葉を
神にも凶器にも変えてしまう恐ろしさをも秘めています。
そのことを、私達はゆめ忘れていけない。




~エピローグのようなもの~

先日、法隆寺を訪れた時のことです。
(桜が満開だった…。)



参道手前で偶然出会ったガイドさんが、
親切にも境内を詳しく案内してくれました。
なんとこの道20年という大のベテランさん。
その彼が、大講堂の薬師三尊像を前にして
「奥さん、観音さんと大仏さんの違い、分かるかな?」と
徐にクイズを出してきました。
さて、どこかで習ったような。
その場にいるだけで心が和む、穏やかな表情の仏像さんを前に
考え込むこと数分。「…髪型と服装ですかね?」
すると彼は微笑んで本尊を指さし、こう言ったのです。
「そう。髪型の違いが見分け方の一つや。見てみ。
あの真ん中の仏さん。パンチパーマやろ?」

 パンチパーマ。

あの、由緒ある法隆寺の、薬師如来(平安生まれ)の面前ですよ。
だしぬけに放たれたあまりにベタでストレートな例えに、
かの「聖☆おにいさん」の某漫才シーンすらすっ飛んでいきました。

それなのに。
言葉に体温を感じた、とでも言えばいいでしょうか。
三尊を見つめるガイドさんのやさしい眼差しが、声が、
言葉の向こうから惜しみない温もりを運んでくるのです。

そのこそばゆい感動に、私は静かに胸打たれました。
彼がいかに仏像たちを、法隆寺をこよなく愛しているのかを
理解できた瞬間でした。

SNSの字面だけだと、この温度はまず伝わりません。
伝えたい情報を必ずしも全て備えているわけじゃないから。
よほど表現の仕方をコントロールできる人でない限り、
相手の受け取り方次第で、言葉はいかようにでも
解釈の余地を与えてしまう。パンチパーマの話だって、
文章だけだとそれが単なる例えなのか、ジョークなのか
皮肉なのか、おそらくすぐには判断がつかないでしょう。

そういう意味で、文字同士のやりとりはあくまで一つの
手段に過ぎません。私はそう考えています。
特に日本語は難しい。
その奥深さや意味の広がりを知っている人ほど、
日頃から一言一句注意深く選んでSNSに投稿しているはずです。
そのくらいデリケートなものなのよ、
日本の言葉というものは。
(だから"生娘"はせいぜい妄想に留めておきなさい。)

字が人となりを表すのならば、
言葉はその本質(魂)をかたちどる。


ここでいう言葉とは「語り」です。
文字単体ではありません。
声や表情が加わって初めて、言葉に語り手の魂(体温)
が宿ります。言霊とはちょっと意味合いが違います。
魂がベースなので、ほんのり辛みのある言い回しだって
いいんです。もしも相手が見えない電話だとて、最低限
声があればいい。大事なのはきちんと魂を乗せてあげること。
そうすれば、どんなに遠くても、初めて会った相手でも、
主の温度を保ったままちゃんと相手に伝わります。

もちろん言葉選びも大事よ。
一つの意味を伝えるにしても何通りもの言い表し方ができる
懐の深さこそが、日本語の度し難い魅力であり、醍醐味だから。
まして言葉は生き物と同じく、時代と共に変遷して
いきますからね。うまく付き合ってこそ心地よい
コミュニケーションが成り立ちます。


あなたの言葉にも、どうか魂を乗せて。
時には誰かを励ますように。
生きていることをお互い確かめ合うように。 
世を知り、言葉を識り、正しく人になろう。


今日の1曲





長いな今回も!清涼剤を投下せねば。
というわけで、はい。オチです。
誰かさんのシャブ漬けとはまるで格が違う、
おっさんの魂の叫びです。

こちら、強烈なデビューで一世を風靡したAdoの
「うっせぇわ」を、何を血迷ったのかビリー・バンバンの
菅原進氏(御年73歳)が、あのゆるい節回しのままに
歌ってみた…
という、ネタなのか若い世代への意趣返しなのかよく
分からないカバー作品(?)。さてこの曲。
オリジナルをご存じの方ならよく分かると思いますが、
タイトルからして若い子が血気盛んに叫ぶ、やたら強烈な
歌です。それを、「また君に恋してる」や「さよならを
するために」といった往年の名曲で甘酸っぱい恋を
口ずさんでいた菅原さんが、のらりくらりと言葉の刃を
躱(かわ)しながら「頭の出来が違うので問題はナシ」
なんて歌っちゃってる。
それも仄暗い哀愁を漂わせて。
にもかかわらず、彼の歌声からは、オリジナルにはない
老獪さが見え隠れしています。一切力むことなく、
流れるように浮世をバッサリ斬って捨てています。
そしていつの間にか、「この歳この人でなきゃ歌えない歌」に
すり替えてしまっている。
狂気すら覚えます。
乗せる魂が違えば、同じ歌も化けるというやつです。

アナタも歌ってみます?

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