若女将コラム

米沢弁若葉マークの若女将が綴る米沢の魅力や日々の西吾妻模様。

若女将コラム

2017年04月

2017.04.29

山奥から独り言

 

今朝、Twitterでしだれ桜の様子をUPしました。
去年の今頃はもうかなり開花が進んでいて、ライトアップも始めていました。



今年はまだこんな蕾。雪が多く寒い日が続いたためですね。
麓や北東北ではもう花盛りを迎えています。
白布の桜はそのあとですので、花見のチャンスがないままGWになっちゃうー!
という方!ぜひ白布の桜を愛でにいらして下さいね☆


(↑西屋の夜桜ライトアップはこんな感じです。きれいですよ~。)



さて、Twitterについて最初に触れましたが、今日は個人的なネット考です。
インターネットがどこもかしこも普及し、自宅に必ずトイレや台所があるがごとく、
各種端末が人々の生活の一部に定着した今、
世の中もだいぶ様変わりしたとつくづく感じています。

とにかく便利になりました。

私のように巷の流行りにとことん疎く、山奥住まいで買い物にも難儀している人間でも、
見たことのない素晴らしい景色や音楽にたっぷりに触れたり、
地球の反対側から珍しい商品を買ったりできてしまえます。
いろんな方とも交流や情報交換ができる。
ほんの数十年前なら考えられなかったようなことがあたりまえに可能になったわけです。

冒頭での「北東北の桜が云々…」も、SNSでどなたかが写真を
UPしたのを見たおかげで状況が分かった次第です。

しかし、ネットには底知れない危険性も常に潜んでいます。
それが近年急速に、影のように人間社会を席捲しつつあることに
正直私は強い危惧を抱いています。

今まで点と点だった遠くの人同士が、ネットを通して無限に繋がっていける現代。
例えばその中の誰かが強い意図を持って、ほんの小さな石を投げ込んただけで
時に異様な集団心理が生まれ、やがて一人ではなしえなかったような暴動に
発展する可能性が生じてきます。

最近、長野県の諏訪大社で、毎年お正月に行われるとある神事に対して
あらぬ抗議が展開されているというショッキングなニュースをオンライン上で読みました。
元々何百年も昔から、深い信仰と自然への畏敬の念のもとで伝統的に継承されてきた神事で、
地元の方々にとっても恒例のものであったはずですが…突如降って湧いたように
「時代にそぐわない」と訴え、(もっと昔から抗議はあったかもしれませんが)
聖域さえ侵す異常な集団行動が生まれた背景にはインターネットの存在が
大きかったと個人的に推測しています。抗議活動の参加者の一人は
「自分はアルバイトだ」と語ったそうです。
普通の求人情報誌でこんなアルバイトを募集するとはまず考えられません。
SNS上で呼びかけたのでしょう。

また、こうした刺激的な話題をネットで取り上げれば
たちまち世間の知るところとなり、注目が集まります。
主催者が意図的にパフォーマンスを上げれば賛同者も比例して増えるでしょう。
賛同者が増えれば、その中心にいる人物は、やがて自らが世の中の代弁者
=正義だという曲解に至る…なんて事態にもなりうると思います。
世の中人の数だけいろんな考え方があるとはいえ、イメージ(画像)と
言葉で強い誘導をかけ続ければ、人の心を掴むのも難しくはありません。
ましてネットの世界は匿名が可能ですから、一度も出会うことがないまま、
お互い本名も知らないまま運命共同体になれてしまうわけです。

諏訪大社の神事に限らず、こういう現象(当事者たちは扇動の自覚はなかったかもしれない)は
ここ数年の間に何度かネット上で目の当たりにしました。

問題なのはこれらの伝え方です。リアルさでいけばリンクされた画像や
映像のほうが目に物言わせますが、都合の悪い部分をカットできてしまう
理不尽さはあってもこれらはあくまで“事実”しか伝えていません。
そこに添えられている言葉(テレビでいえば解説や字幕)の
影響力のほうがはるかに重要です。

規模や舞台は全く違いますが、実は私個人も幸か不幸か、LINEのグループ上で
親しい友人共々かつてエライ目に遭ったことがあります。



SNSの場合だとフォロワーの数やグループの規模がそれなりに
影響力を持ちますが、対面上の人間関係の強さには当然及びません。
にもかかわらず、見えない相手同士との曖昧な繋がり程度で個人の尊厳や存在自体、
簡単に否定できてしまうのです。感情が読み取れない平坦な文字のやりとり、
そのほんのわずかな解釈の違いだけで、敵だの味方だの仲間外れだのと、
昨日まで親しかった者同士があっさり決裂する。
冷静に考えれば考えるほどくだらない。
そんなものは最初から友達でも仲間でもありません。

脱退するタイミングが悪ければ私も未だに凹んでいたかもしれませんが、
幸いすぐ近くに状況を知る理解者がいてくれたおかげで何とか埋没せずに済みました。
やがて、その不安定な関係に未来性はないと判断し、
渦中にあった個人のTwitterアカウントも去年の暮れに削除しました。
一抹の寂しさを感じたのはほんの一瞬でした。
むしろ、いつ切れるとも分からないシャボン玉の薄い膜のような繋がりよりも、
共に暮らす家族や今自分がなすべきことに真摯に向き合っていこう、
何よりも目の前にいる人を大事にしていこう。
そんな風に考え直すいい経験になりました。



幸い私は物ではなく宿泊「体験」を提供する商売なので、対面なしでは
仕事できません。いろいろな意味で気持ちが楽になったのも確かです。
今でも必要な時以外はなるべく覗き込まないよう
ネットからは常に一定の距離を置くようにしています。
テレビにいたっては、もう何年も前から全く観ていません。
これは単にテレビが苦手という理由ですが(苦笑)


ネット上の言葉の暴力で傷ついている人がいたら、ぜひ伝えたい。
たまにゃ端末を閉じて、気持ちもスイッチオフにして、外に出て思いっきり深呼吸してみて、と。


ネットの世界は人間によって作られました。全知全能ではありません。
むしろ、なんと狭い世界だろうと思ってしまいます。
雄大な山並みや夜空いっぱいの星空…本当の世界はもっともっと広く、
端末の向こう側の小さな悩みなんてかるく吹き飛んでしまいます。

そう、世界は広いのですから…。
胸を張って、もっと自由に生きていきましょう。

2017.04.01

【湯守シリーズ】最終回

 

冬の間細々続けてきました湯守シリーズ(もはやコラムじゃない)。
個人的春休みを頂きまして、とうとう春の足音聞こえる4月に入りました。

今日は最終回です。
“湯守であることの意味”を改めて自問しつつ、このテーマを締めくくりたいと思います。

3湯守の想い
後先考えず湯守になって、かれこれ3年目になりました。
あれ、まだそんなもんかー、よく続いたなぁ…というのが正直な思いです。
元々自他ともに認める三日坊主。
この役目を引き受けてからいろいろな出来事もありましたが、
いやだと思ったことは不思議と一度もありませんでした。








(↑湯滝風呂と共に春夏秋冬。気が付けばほとんど同じアングルで一年中
写真を撮っていました。)


私達温泉旅館業は、温泉があって初めて成り立ちます。
あまりにも当たり前すぎてその恩恵を忘れがちですが、
お客様は料理や建物の風情と同じくらい、温泉で心身を癒すことに
高い目的意識を持ってはるばるお泊りにお越しになります。
その良さをきちんと提供することができなければ、どんなに料理がおいしくても、
部屋がきれいで接客態度に問題がなくても台無しです。



温泉の湧くところに温泉旅館たるアイデンティティの原点が生まれ、
人々が生活の糧や、癒しと旅情を求めて集う基点になりうる。

そんな自然と人とを繋ぐ湯守であることに、私は強い誇りを持っています。


(↑去年の秋、強力な沢の水圧で破損したホースを補修。
水回りに詳しい先輩たちの支えは本当に心強い。)



しかし、本当にそれだけなのだろうか。
ずっと疑問でもありました。誇りだけではないと。

必要な仕事だから行く、それもそうなんですが、
そういう義務的な思いでもない。それ以上の何かがあると。




なぜ女将が危険が伴う山へ入るのだと批判めいた言葉をかけられたことも
実は一度や二度ではありません。
このコラムを読まれている方の中にも同じ疑問を持たれた方も
いらっしゃることでしょう。シリーズの最初でも書きました通り、
西屋の湯守も元々は番頭さんの仕事でした。







しょっちゅう怪我はするし、泥だらけになるし、工事現場用長靴が愛用品だし、
台風で梢が唸る夜の山では雄たけびを上げながら落ち葉を取り除き、
翌朝が心配で寝起きのまま軽トラを夢中で走らせたり。




でも、あれこれ考えたりすることはありません。
懐中電灯を持たなければ一歩も歩けない沢のほとりで、
夢中なあまり一瞬の恐怖もたちまち忘れてしまいます。
いつも作業を終えてから「あれはなんだったんだ」と自分で拍子抜けするぐらい、
文字通り引き寄せられるように山へ足を運び続けました。

なぜ自分は、社長や男性スタッフに頑として席を譲らず、一人山へ入るのか?
私は明確な答えを返すことができていませんでした。 

一体何が自分を山へと駆り立てるのか? 




温泉は一度地上に降った雨が、長い年月をかけて火山の熱と成分を蓄え、
地上に帰ってきたものです。そうして川へ海へと旅立ち、空に昇り、
いつかまた雨や雪となって山に還ってきます。
そのサイクルは人の一生よりはるかに長く、
地球を舞台にして何度もめぐっています。




目に見えない水の旅。
その根底にあるのは地球の命そのもの。

ある時、ようやく気付けました。

自分は温泉や水、森にただ会いたいのだと。
何時再び出会うかわからない温泉の今にいつまでも触れていたい、
見守り続けたいと。


温泉との対話は言葉を必要としません。時間も超越します。




水が輝きながらそこに流れているだけでうれしい。
変わらない温泉の温かさがうれしい。



その流れは変わらないのに、
季節ごとに周囲の自然に溶け込みながら変化していく水や温泉の姿に、
毎日初めて出会えた気がします。



永遠に近い時間の中で
「星と共に生きている」という思いを共有できる瞬間があるから、
自分は湯守を続けられるのだと。




現代社会は価値観も技術も広く高く伸びすぎて、
世界は狭くなった代わりに、その居場所が見つけづらくなったように思います。
メディアから流れる情報には妙なフィルターが掛かり、
まるで世の中全体が何かの意思に操られているようです。




いつから人間は、水や森のようにありのままに生きることを
難しいと考えてしまうようになったのか。
そんな人々の暮らしの中に、個を思い出し、自分に還れるひと時を
提供できるのが温泉だと考えています。




温泉には強く、やさしい、不思議な力が眠っています。
毎日触れているからよく分かります。

お客様には、私のように小難しいことを考える必要は一切ありません。
ただただ、温泉に肩までゆっくりつかって、疲れを洗い流してほしい。




湯守の仕事。
それは、揚げたての天ぷらを食卓に並べる前に味見できる
お母さんのひそかな特権のようなもの。
そのくらいに思って頂けたら幸いです。
あくまで裏方でいいのです。
お風呂上がりのお客様の笑顔を見ることができるだけで、私は幸せなのだから。


~終わりに~





いつか私の身体も寄る年波に衰え、湯守を担えなくなる日がきます。
そのときは、どうか意思ある人に湯守を継いでほしいと願っています。
50年後も、100年後も…未来のお客様が温泉の癒しを受け取って、
明日への元気を再び取り戻してくれたら、 それ以上望むことは何もありません。

そんな思いを胸に、私は今日も水と温泉の源を目指します。


完。


皆さん、長い独白のような湯守シリーズを最後まで読んで下さり、ありがとうございました。